光速の背景  29 次ページ

 第1章 輝かしい発見
これらの実験結果を3月、フランス科学アカデミーに報告した。新しい放射線は“ウラン線”と命名され、その源はウラン元素であること、放射線には反射・屈折の性質があるのでX線とは異なることも明らかにされた。このあとマリー・キュリーに受けつがれ、それはα粒子であり、原子核から崩壊によって放射されるものであることが分ってゆくことになる。
 コーンによると、実はベクレルより30年も前、もうすこし注意していればこの放射線を発見したかもしれないニエプス・ド・サンヴィクトルがいた。彼は写真技術者で、ヨウ化銀ほかを混合した写真乳剤をこしらえてもいた。1867年、乳剤を施された写真乾板の中に蛍光性ウラニウム塩がもとで曇ったようになったものがあることに気づいたが、蛍光のためかと考え、深く追求しなかった。



発見はある特殊な機会に恵まれることから実現することがある
1897年 電子の発見 J・J・トムソン

 電磁現象はファラデーからマクスウェル(183179)へと進められ、基礎方程式も確立したが、依然として電気の本体はどういうものであるか明瞭でなかった。物質の原子構造が明らかになるにつれ、ドイツの物理学者ヘルムホルツ(182194独)は1881年に電気原子の考えを、ストーニーは1894年にその電気原子を「電子」と呼ぶことを提案した。
 ガラス管の中に電極を封じ込めて管内の真空度を高めていくと放電するという実験は、以前から行なわれていた。ドイツのブリュッカー(180168独)は一八五九年、管内の陰極から光の束が陽極のほうへ進み、ガラス壁に当たるとガラスが蛍光を発することを発見する。彼がガラス管に磁石を近づけると、光の束は曲がった。それは電流によく似ている。ゴールドシュタインはそれが陰極面から直角に出ていることを示し、“陰極線”と名づけたが、その本体はエーテル中の波動だとした。
 ヘルツ(185794独)は1883年の実験で、ガラス管を平行な電極で挟んでみたが、陰極線の進行方向が曲がらないのを見て、陰極線は電流とあまり関係ないとし、彼もエーテル波動説をとっている。
 ローレンツ(18531928蘭)は物質原子が陰陽の電子からできており、電子の振動によって光が出る、という考えからゼーマン効果(ナトリウム炎を磁場の中に入れると、そのスペクトル線が広くなる)を見事に説明し、電子の質量mと電荷eの比を実験から計算し、この比が水素原子イオンの場合の1000分の1と小さい値であることを示した。これが、原子内電子が存在するとした理論的予言である。
 J・J・トムソン
Josseph John Thomson 18561940英)はヘルツの陰極線が電気を帯びていないという実験の誤りを徹底的に検証し、m/eを正確に測る実験からこの値がローレンツの理論と一致することを示した。かれが管内の気体の種類や陰極の材料を変えてみても、m/eの値はつねに同一であった。陰極線粒子が水素原子の1000分の1という極微な粒子であるばかりでなく、すべての物質に含まれる普遍的成分であるという仮説を1897年かれは発表した。現在の素粒子物理学の誕生を告げる瞬間であった。

 陰極線の正体をエーテルの波動であるとみるドイツ派と帯電粒子であるとみるイギリス・フランス派の対立は長く続き、40歳そこそこのトムソンらが相手を負かすには夜を日についでの実験が必要だった。かれらの前に、大御所ヘルツの実験が立ちふさがっていた。陰極線は帯電しているはずなのに、なぜ電場で曲げられないのか。このことがトムソンの頭から離れなかった。
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