光速の背景  31 次ページ

 第1章 輝かしい発見
確かな予見と忍耐強い努力の末に
1898年 放射能とラジウムの発見 マリー・キュリー

 現代の原子力時代の幕開けともいえる出来事は1895年11月に起こる。そのときウィルヘルム・レントゲン(18451923独)は陰極線管からふしぎな“光線”が出ているのを観察した。その光線は目には見えないのに写真乾板を感光させ、紙や木や人間のからだを貫通する性質をもっていた。レントゲンはこの見えない光線をエックス線と呼んだ。
 この話を聞いたアンリ・ベクレル(18521908仏)はすぐ、ある実験にとりかかった。かれはウラン鉱石について研究していたが、ウラン鉱石もエックス線と同様に写真フィルムを感光させることに気がつく。1896年3月、ベクレルはウラン鉱がエックス線同様のものを絶えず出しつづけていることを発表した。
 ポーランドの貧しい教師の娘として生まれたマリー・キュリー
Marie Sklodowska Curie18671934仏)は、パリに出てソルボンヌ大学を卒業し、物理学者ピエールと結婚して、そのころパリに住んでいた。28歳のマリーは早く博士号がほしくて、そのためのテーマを探していた。このときマリーの目に留まったのがベクレルの発表だった。ウランのほかにもエックス線を出すものがあるにちがいないとマリーは考え、ほかの鉱石の検査にとりかかった。ちょうど、夫のピエールがずっと以前に発明し、ホコリをかぶっていた“水晶ピエゾ電位((4))があって、エックス線が出ているかどうかを簡単に知ることができた。マリーはほどなくトリウムという鉱石がエックス線と同じものを出すことを発見する。それを1898年4月に発表したものの、同じことをドイツのゲルハルト・シュミットが二ヶ月前にベルリンで発表していた。
 マリーはしかし、もっとおもしろいことに気づいていた。ウランの原鉱石である瀝青ウラン鉱やりん銅ウラン鉱はウランそのものより4倍以上も強いエックス線を出していた。これらはウランよりずっと活性の高い別な物質を含んでいるにちがいない。マリーはそれを取り出してみることにした。夫ピエールも、自身の研究を一時中断してマリーの実験を手伝いだした。瀝青ウラン鉱を乳鉢ですりつぶし、1898年6月、ウランの150倍の活性を示す物質が得られ、精製していくと200倍、300倍と強くなった。二人は連名で論文を書き、「もし、この新しい金属の存在が確認されたら、われわれのうちのひとりが生まれた国の名をとってポロニウムと名づけることを提案する」と表明し、はじめて“放射能”という言葉を使った。その年の11月、もっと放射能の強い物質が含まれることがわかった。ウランの900倍以上の放射能をもっており、夫妻は“ラジウム”という名をつける。
 だが、乳鉢から得たポロニウムやラジウムは量があまりに少なく、新しい元素であることを証明するに至らなかった。マリーはそれから何十トンの原鉱石に挑み、4年後の1902年3月、やっと0.1グラムばかりの塩化ラジウムを得て、それが新元素であることを確定した。
 ラジウムは人々を熱狂させ、新聞記者たちが押しかけた。女性博士はドイツにひとりいるだけだったから、マリーは珍しい存在であり、それだけで大ニュースであった。 ラジウムはガンの治療に使われるようになり、奇跡の産物であるかのように歓迎された。それからも世界をどう変えたかといえば、ラザフォードらは放射線を詳しく研究して原子の構造を推理した。中心に核があり、そのまわりを電子が回っているという原子核模型はラザフォードになる。1938年にはウランの核分裂が発見され、1942年12月、世界初
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