光速の背景  32 次ページ

 第1章 輝かしい発見
の原子炉がアメリカのシカゴ大学に完成することになる。 

註4 水晶ピエゾ圧電効果を用いた電流発生装置と、資料を入れて放射能強度に応じた出力電流を取り出す平行平板電離箱と、その電流を測定する4重極電位計とからなる。キュリー博物館に所蔵されている。


 なぜとも知れず一致するものが見つかるとは!
 1900年 プランクの量子仮説

 放射エネルギーはある決まった単位素量ずつ放出され、それはプランク常数hとしてよく知られている。1900年のプランク(Max Karl Ernst Ludwig Planck 18581947独)による量子仮説では、物体が輻射・吸収するエネルギーはその単位素量の倍数として、不連続にしか存在しない。プランク常数はその(ゲン)をジュール・秒、つまり「エネルギー×時間」としてもつ常数で、h6.626×1034Jsである。プランクの量子仮説は実験結果とはよく一致するものの、当時はマクスウェルの連続場理論でじゅうぶん実用されていたから、うまく説明がつかなかった。著名な科学者たちに無視されてゆく中にあって、1905年、アインシュタイン(18791955米)は光量子仮説の中で、このプランクの量子仮説を大胆に導入した。ところが、当のプランクはアインシュタインの光量子仮説を批判する側に立つ。両者は受け入れられないままであったが、1910年ころになると、まずプランク量子仮説が注目されるようになる。プランク常数hを使えばスペクトル線の説明がうまくゆき、アインシュタイン、デバイ、ボルン、ネルンストといった超一流(『科学技術史の裏通り』によれば)の科学者が、それぞれの立場から量子の考え方を原子の熱振動に適用して固体比熱の理論を完成させていく。1912年のソルベー会議で、理論物理学の将来の方向としてhを導入することが検討され、翌13年、ボーアがラザフォードの原子模型に量子仮説を取り入れて水素スペクトル系列の説明に成功し、原子構造論を確立するに至る。


 二番煎じは成功するか
 1905年 アインシュタインの光量子仮説

 光の本質について、それまで支配的であった波動論では、外部光電効果――加熱した金属面に光を当てると、その波長の違いによって表面から自由電子を放出したりしなかったりする現象――という実験的な事実が説明できないという難題があった。アインシュタイン(Albert Einstein 18791955米)は1905年、プランク量子仮説をヒントに、光は粒であるとする光量子仮説をたて、光子が加熱した金属面の自由電子を叩き出すからであるとした。アインシュタインにノーベル賞が贈られたときの名目の功績は、相対論によってではなくこの光量子仮説による。
  アインシュタインは「理論物理学の来るべき発展段階は、光の波動論と輻射理論を融合する光の理論をもたらすであろう。光はあらゆる方向へ広がる球面波ではなく、輻射線の放出の要素的過程は、それぞれの方向を持ち、その放出・吸収は一定のエネルギーの量子においてのみ行なわれる。この光量子仮説によってのみ、上述の問題は解決されるであろう」と断じている。1909年の論文では、「プランクの式は輻射を粒子と見なした場合の項と、レイジー・ジーンズの式(輻射を振動体の集合とみる古典統 

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