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第2章 疑うべき学説
地球の運動する方向にそって測った光の速さは、この運動に対して直角の方向からくる光の速さよりも大きくなるはずだ。1887年、マイケルソンとモーリーはきわめて精密な実験を行なった。地球の運動方向とそれに直角な方向で、光の速さを比べたのである。驚いたことに二つの速さはまったく同じだった!」(『ホーキング宇宙を語る』から)
 このことについてオランダの物理学者ローレンツは、
「エーテルの中を動くときには物体は収縮し、時計は遅くなる」(同上)と説明し、当時、スイスの特許局の職員だったアインシュタインは、
「絶対時間の概念を放棄する気になりさえすれば、エーテルの概念はすっかり不要になる」(同上)と説明する。
 フランスの数学者ポアンカレも同じことを主張した。ホーキングによれば、この問題を数学的にとらえたポアンカレに比べ、アインシュタインの議論の方は物理学に密着していた。それからホーキングは「相対性理論と呼ばれるようになったこの理論の基本的な前提は、等速度で動いているすべての観測者に対して、その速さがどうであろうとも、科学的法則は同一であるべきだというものだった」と説明する。
 ここまではぼくらにとっても、相対論を説明する内容としてはそのとおりである。その上でこういった考え方が科学的にみて真っ当であるかは別段に考えてみなければならないだろう。すくなくとも私は、わたしが今どんな動き方をしていたとしても、物理的法則は私に構わず同一である(変わるわけがない)という点にはまったく異論はない。注意しなければならないのは、ここの「同一であるべき」という句が曲者であることだ。これが相対論ではいろんなふうにすり替えられていく。
 しかし彼が説明したとおりであるとすれば、こんなふうに解せられる。すなわち、観測者である私がどんな等速度運動をしていようが、自然法則は私が観察するとおりの――つまり私に見えるとおりの――ものが自然法則である、ということになる。(これは今、じつはわたし自身が解釈をすり替えた)

 そして今、彼が説明したとおりのこと、わたしがいま解釈をすり替えたとおりのことが、アインシュタインの相対性理論に紛れもない。つまり光の速さは、私が他の人たちとは別な、勝手な等速度運動をしていても自然法則のとおりのものである、ということになる。他の人たちそれぞれにとっても、彼自身にとっても同じ光速である。私と他の人たちが見ている同じ光の速さがそれぞれにみな同じである、つまり、光の速さはそれぞれの人に同じ値でついてくるというわけである。
 ぼくらにとってあまりに変な話で、すんなりと腑に落ちない。ぼくらの方がまともでないのだろうか? 大自然の法則は、ぼくがどんな速度をもっていようが、ぼくの存在とは無関係に、絶対的なものであるはずだった。そのはずの法則を、ぼくなりの法則として“もち運んでいる”という矛盾を、相対論は抱えている。

 ところが、この矛盾をはらんだ相対論が“現実”のものであるとして論じられるのは、さきの「私と他の人たちが見ている同じ光の速さがそれぞれにみな同じである」という理論と、現実にマイケルソン実験から得られた「それぞれに対して光の速さはまったく同じ」であったことに一致しているという点によってである。
 そこで、ぼくらがぼくらの深い考察によって見抜くことになるのは「それぞれに対して光の速さはまったく同じ」という解釈が間違っているという事実からである。この点がきわめて重要なことだが、このことは第四章に譲ることにしてホーキングにもどると、次に彼は
「これはニュートンの運動理論については真実であったが、いまやマクスウェ

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