光速の背景  75 次ページ

第4章 未来への道
も好きであったから、理学と芸術の中間である建築を生涯の仕事として選ぶことにした。それは魅力的だったし、十分に楽しんだ。


回り道が事実に基づく客観性を培った

 1970年、社会人となってはじめて見る、重層した東京という大都会には、圧倒されるものだった。第一銀行の威風堂々たる各建築など、一手に引き受けていた西村好時による設計事務所は、わたしが入社した当時、山下設計と兄弟のような仲だった。皇居の堀端に面した重厚な「東京海上ビル」のなかにあって、銀行ビルやNHK放送会館やIHIの各建築などの仕事に触れることができた。
 わが国で最初の超高層建築「霞が関ビル(36階147㍍)」が完成したのは、わたしがまだ学生だった1968年4月だ。山下設計になる。実現したのは鹿島だ。それまでは、高さを31メートルまでに制限されていて、その建物にかかる地震力は、全重量のうける加速度が重力加速度の0.2から0.3ほどである、として計算していた。これは厳密には不合理だ。建物の柱が大地に接触する足元で地盤と同じ加速度で揺れても、高層階ではまだその加速度ではない。地上階全体が一斉に0.3Gで動くとは乱暴すぎよう。実際には足元が揺れても上部は揺れていない細高いコンニャクを想像してみるとよい。
 霞が関ビルは東京大学教授、武藤清による動的解析――地震波をコンピュータ入力し、この変動外力に応じて各部材にどう力が伝わるか――によるものであった。柔構造設計による超高層建築が、地震国日本でも、以後可能になった。
 建築様式で言えば、わたしが実質的に建築の世界に入った1970年ころは、モダニズムからポストモダン(ポストモダニズム)への過渡期である。それまでのモダニズムは19世紀以前の建築様式を批判し、産業革命以後の社会に合う建築をつくろうとする建築運動である。“近代主義建築”と呼ばれる(時代は常に進むのであるから呼び方を変える必要があるだろう)それは、装飾を省略し、要求に即した建築を機能的に考えるべきであるとして、普遍性とか国際性を主張する。
 英国のアーツ・アンド・クラフト運動の中心者、ウィリアム・モリスは、産業革命による大量生産品のあふれる状況を批判して、生活と芸術の統一を主張した。フランスのアール・ヌーボー建築は過去の装飾を否定し、植物からモチーフを得た曲線的で自由なデザインを用いた。オーストラリアのゼツェッシオンも、多様で自由な装飾をみせる。その中心的オットー・ワグナーは「芸術は必要にのみ従う」として、合理性を重くみる理念を表現した。その影響をつよく受けたアドルフ・ロースは「装飾は罪悪である」と宣言、建築は目的や素材に応じて設計すべきで、装飾を付けるのは文化の程度が低いものだと主張する。
 モダニズムの多くは装飾のない直線的立方体が特徴的で、考え方は機能的であり合理的だ。地域性を超えた普遍的デザインであることとされた。白い箱のような、装飾のない建築が建ち並ぶことになるが、合理性や機能性を重視する余り、味気なくなったという批判がおこる。
 1972年のロバート・ヴェンチュリーらの著になる『ラスベガス』は、モダニズムの理想は一般の人々にとって高尚すぎるとして批判し、むしろ猥雑で張りぼてのような、日常的風景などから学ぶべきだとした――しかし、わたしはこの醜いものはひどく嫌いだ――。 ポストモダンはそれを乗り越えようとして起こった。モダニズム建築で否定された装飾性や象徴性の復権が唱えられた。しかし、ポストモダンでは多くの例で建築空間の洗練とか本質的改革の代わりに、表層だけをにぎ
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