光速の背景  87 次ページ

第4章 未来への道
装置はわずかにも揺れる場所では観測できない。していない実験をしたかのように“車上でも地上でも同じ速さであった”としたのは解説者の思惟が込められた伝達である。われわれによって新しく見出された「光の重力場法則」によって、そのことは明瞭に理解されよう。

渦に乗った船
 光は波であるとされる。波の仲間に音波がある。音の波は空気や水や固体といった媒質の中を伝わる。震源である粒子の動きが次々に隣接する粒子に伝えられるからである。これら粒子たち全体に対して、定まった音速がある。光にも同様な媒質があるはずとして、それをエーテルと呼ばれた。そのエーテルに対して地球が地球の公転速度で動いている、とは、そそっかしい早呑み込みであった。それがマイケルソン実験によれば(方向による光速の違いとして)検出されなかったという。このことから、アインシュタインらによって、エーテルは存在しない(ヽヽヽ)とされた。では光はどこを走るのか? 光の背景、ぼくらはそれを基本から考えてみなければならない。
 学者の多くは、まったくの真空中を光は走ると考え、それ以上のことに考えつかない。アインシュタインの提唱によってその思考を停止してしまったからである。夢のなかの人のように、光のたよりない空間にあって、物体の絶対静止空間がどこにあるかが定まらぬと同様に、科学者たちはただ、その光はだれにとってもまったく同じ速さである、として片付けてしまった。それなら、ぼくらは根気よく、光を産むのはなにか?ということから考えなおすことにしよう。なんとしても、このままでは腑に落ちようがない。
 光とはどのようなものであるかをよく見ようともしないで、その速さがどうこう言っても始まらないのではないか。そこでよく見れば、光はたしかに物質から生まれているようである。火打石からでる火の粉、電気の火花、これらと同時に光は発する。この電気もしくは磁気の振動から生まれるらしい。では電気や磁気の振動はどこに生じるのか? 真空中にか? 否、それが生まれるのはその電場や磁場のなかで、ではないだろうか。つぎに、その電場や磁場はどこにあり、それは動いているのか? そのように考えてくると、それはその場を産みだしている鉱石や電気良導体、あるいはそれを構成する微粒子たる原子であろうと考えるのはしごく自然ではないか。これらは物質である。物質はしたがって、物質の存在と同時に電場や磁場、さらに重力場をそれぞれ保有している。

 その根元は幻子と同じであろう、というのがわたしの持論であるが、それらの“()は、それを産んでいる“物質”ひいては物体に付随し、その物体に静止している。 いますこし詳しく考えてみようと思う。それに先立って、マイケルソン-モーレー実験にすこし疑問をもっていたことに触れておきたい。それは、あの装置で用いられた光源が光の干渉を確認できるほどのコヒーレンス(波の同一性)をもっていたかという点であった。光というものは、振動している無数の電子たちが、あるエネルギーレベルに達して個々に放出する、ほんの数波からなる電磁波たちの集まりであると私は見ている。水溜りに雨滴がつくるたくさんの輪が広がってゆくように、数波からなる電磁波の群れとなって広がってゆくものであろう。いちど別けた光をふたたび合わせることでみせる干渉は、光の数波以上の行路差が生じた場合、観測できるはずがない。マイケルソンたちが用いた光源はナトリウムランプである。光の波長は1万分の1ミリメートルという微小なものだ。光路Xと光路Y方向の距離をほぼ正確に等しくしなければならない。精度を上げようと改良された装置は幾度も反射を繰り返し、光路長を長くしてあり、それだけ2方の距離の差は大きくなってしまっただろう。干渉縞はちゃんとできただろ
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