光速の背景 次ページ

第5章 未来へなにを遺すのか
た時間の半分に光速をかけたものである」(括弧書は筆者が記入した)。
 図にはレーダーから月までの電波の経路を、月に対して垂直の向きに動いているレーダーから出発した光が月に反射され、その間に動いているレーダーの位置まで戻る軌跡として、二等辺三角形で示してある。この図でみる限り説明のとおりである。この図がマジックであり、批判力のない読者ならこのまま鵜呑みにするであろう。ホーキング自身はおそらくこのような具体図はイメージになく、車椅子から観念的に述べたものだろう。この状況はきわめて希なケースで、普通なら、まずレーダーが月に対して傾斜した方向に動いていよう。その場合、二等辺三角形にはならない。すると二辺は等しくなく、電波の往復時間のちょうど半分が月までの到着時間ではなく、これに光速をかければその距離だとはいえない。
 二等辺三角形の説明はもちろん相対論に基づいている。拙著『アインシュタインの嘘とマイケルソンの謎』で解説した、流れに対して往復するボートがその島へ到着し、戻る、各々の時間が等しくなるように島の時計が調整されている(時刻は場所によって異なる)という奇妙な前提に、である。相対論に立つ彼は次にこう言う。
 「この手続きに従えば、たがいに相対的に動いている観測者は、同一の事象に対して異なる時刻と位置を割り出すことになる」。
 この内容の“異なる時刻と位置”というのは(読者の頭の中では)各観測者から事象までの距離ということになる。したがって、
「…どの観測者も他の観測者の相対速度を知っていれば、同じ事象に他の観測者がどんな時刻と位置を割り出すかを正確に計算できるのである」と彼は説明する。

 もう“相対論”的に矛盾していよう。ここに言うのは、観測者たちが月の位置を確定するために、かれらの相対速度が互いに等速度運動であっても構わない説明である。すると相対論の基本に従えば、自然の法則はすべて同一でなければならなかったはずが、ここでは同じ事象が観測者によって異なる、というニュアンスを読者にもたせる。
 ここでなんとなく混乱に陥れられる“事象”という用語に注意したい。彼が説明で“光”を用いているのは、本来的には対象までの距離計測に関してである。これを“対象”と言わず“事象”と称し、いつとはなしにその時刻を、月のある状態の瞬間とすりかえていくのが相対論の常套手段であった。彼がいまなぜ月のことを事象、事象と盛んに呼ぶのか、警戒していなければならない。
 しだいに読者は魔法にかけられる。彼は
「どの観測者が光の速さを測定しても同じ値を得るように自動的になってしまう。マイケルソン=モーリーの実験が示しているように、だれにも存在が検出できないエーテルという考えはもう導入する必要がない。相対論は、われわれに空間と時間の観念を根本的に変えるよう迫る。時間は空間と結びついて時空と呼ばれるものを形づくっている。われわれはこのことを認めなくてはならない」と、怪しい説明を始める。しかしわたしはずっと前から、時間とは人が勝手につくった概念にすぎず、自然界に存在するものではないと考えている。便宜上、物の変化の速さを観測するために共通な間隔として“時間”という概念を設定し、これをだれにも共通して通用するために、それを振り子の周期で決めたり、水晶の発振周期で決めたり、近年にはセシウム原子における準位間の放射の周期で決めようとしている。どの基準によっても、同じ基準を採用しているかぎり、理論はその時間を用いて進めることはできる。そんな、人の勝手な“時間”が空間と結びつくわけがない。
  それから、エーテルという考えはもう「導入する」必要がないというが、そういったことを人間の思惟によって、自然の性質として決めつけられると 

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