光速の背景  132
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第5章 未来へなにを遺すのか
学である。落下実験から2αは重力の加速度gであると確定される。つまり、g=9.8m/sec2と実験観測によって確定した。χ方向へは一定速度υとすればχ=υ tとなる。これで物理学になったであろうか?
 これまでの数学的数式に、自然から得られた自然定数gを入れた式は、なるほど落体の実際の位置を正確に記述する。物理法則に極めてよく一致する数理物理学となった。
 しかしまだ本当の物理学になっていない。それはなぜか?
 この式だけではなぜg=9.8となるのか、その原因は究められていない。これを理解することが本当の目的であり物理学であろう。このような運動を起こさせる原因は何か?という本質的なことは何も分かっていない。
 同様なことは、量子力学に代表される波動方程式でもみられる。これは力学ではない。三角関数を利用した波動式は、あくまで数学である。あるいは幾何学である。数理上、あるいは幾何学上の計算過程としては厳格に正しい。しかしその図が動くように見えても、これを起こさせる原因項目が入っていないから“波動”ではない。そして往々にして、方程式を変形していって出来上がった式に、物理に似たもっともらしい解釈が加えられる。しかしこれは物理学としてやってはいけないことだ。物理に式が付くのであり、式に物理を付けてはならない。わたしはそのように考えている。
 落下方程式と同様、角度(単位 ラジアン)を時間t(または時間の関数)で表わしたものはその時刻での位置を表わすから、かなり物理に似ている。しかし本当の物理は、幾何学ほど単純ではない。媒質の質量や弾性率といった、さまざまな条件によって、その図形はずれている。次第に減少する。この“変化”を記述し理解することが物理学の目的だ。それを起こさせている原因がなんであるかを重視することこそが物理学だ。
 観察された現象の表皮的な面を、数学によって展開しようとするとき、いつの間にか数学の規律のよさに酔いしれる。つまるところ、いつの間にか物理学の道を見失っている。ゆるぎない物理学だと思い込んでしまうのであろう。たとえばローレンツ変換式がそうである。しかしあくまで、物理学の本質は自然の変わらぬ性質――自然法則――の発見にある。いかなる人にとっても、自然の真実こそは、物理学における真実である。その概要を数学で記述することは多く可能であろうが、できないこともある。それは数学ではなく自然現象だからである。

光がもつ物理
 実際の現象から考えてみよう。遠くから近づいている列車の音がレールから伝わってくる。稲妻が走ってから雷鳴が空を伝わってくる。われわれは音を波であると解析した。鉄や空気を構成する隣り合った分子たちの運動が次々に伝わってゆく波として捉える。そして、それで正しいであろう。波を伝達させる粒たちを媒質と呼んだ。分子や原子は、質量と大きさとを持つ物質(ヽヽ)である。物質の運動が伝わってゆく波というものの媒質は、たしかにやはり物質だ。音とは物質の運動である。物質だからこそ、その運動にいたる加速度を持ち、変化のための時間が必要となる。波のパラメータに時間を持つ原因である。

 この常識をわれわれは誤って援用し、光は波であると知ったとき、波ならそれを伝える媒質があると考えた。そして、大いに誤った。 物質ならずとも“変化”あるところ“波”ありなのだ。光に関して誤った原因は、音という波を伝えるものが物質であったことまでをも援用したことだ。あらゆる実験によっても、光波に媒質としての物質を見出すこ
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