光速の背景  133
次ページ

第5章 未来へなにを遺すのか
とができなかった。物質が存在しなくても光が伝わることを知るや、物質を取り除いた無の空間をエーテルと呼んで媒質とした。ここに思慮の不足がある。
 エーテルに目印をつけることができなければ、数学上の、つまり仮想の座標をあてがい、数学で解こうとしたのであった。あまりに原始的な思考は、物理を無視した相対性理論という空想論を産み出してしまった。さっき述べた魔術的数学に迷ったのだ。われわれは心がけて、真の物理学へ戻らなければならない。

 物の振動である音の媒質が物質であるなら、電磁波である光の電磁振動を伝えるものは磁場であるか、電場であるか、さもなければ重力場であるかにちがいないと、なぜ思いつかなかったか? 光の媒質とは、無の空間でも、仮想的な座標でもない。私たちはそのことに、もう気づかなければならない。
 そもそも時空というような複雑で面倒な空間で考える必要などなかったのだ。これに気づくなら、自然という、現実に起こっていることの叙述に、仮想的な相対論が適用されるわけがない。
 
第4章『光速の法則とその解説』で述べた私たちの新しい考え方、“光速の背景”こそが、光に関して生じたあらゆる矛盾を解消してくれる光の持つ真実だ。相対論もまた、間違った常識の典型的な実例であった。


 なにを未来に負わせてよいか

 未来に引き継がれる学問にあって、現存の説が未来への躓きの障碍を含んでいてはならないのはたしかだ。その躓きの障碍が岩のように大きい場合には、無数の誤った見解が産み出されてくるにちがいない。
 われわれが喜びをもって残すべきこととして、自然のたしかな道理を知る、たしかな足掛かり、未来の平和と幸福へ向かうもの、生命あるものに未来を与えるもの、宇宙生命の存続に関する研究等々を揚げてよいだろうか。そのために必要な地についた物性の研究、存在の“起源”に関する考察…等々があろう。
 き渡すべきことは、疑うべき学説・教条に対して疑義を唱えうる自由な土壌、正しい科学を分かりよく正確に伝えること、見せ掛けの学問もどきと真に意味ある学問とを見分けられる方法、だろうか。

 未来に負わせてはならないこととしては――不毛な空論は、これを残し、未来にまで負わせてはいけない。虚言や妄想による無際限な繰言はもちろん、堂々巡りに陥るものや、陥った課題を負わせることも。論説上、提唱者を差別し軽んじ、その結果、ゆえなく提唱者を虐げるような体制制度もそうだろう。望ましくないとわたしが思うことは、権威によって科学的思想を抑制し統制すること。論説に対する弾圧や教義的洗脳。学問を理由に、平和や人道を損なうもやむなしとすること。 学問と心の修養とは両輪、欠くことができない。知と心とは生命の未来にとって車の両輪のようなものだからである。友愛と平和への志向は往々にして科学研究の間にも忘れられがちになる。自然科学に必要な知は記憶と解析力と予見性、心は良心と慈愛と心道である、とわたしは考えている。心道とは、自他を省み、高い理想をもち、人の尊ぶべき道を大切にすること、と意識している。筆者には科学者に人道を説くほどの徳はない。そのわたしにも、心道を修めることは学問を深めるのと同じほどに困難を
  133
次ページ