光速の背景  134
次ページ

第5章 未来へなにを遺すのか
伴い、努力を要することに思われる。知性には欲が結合しがちだからである。もちろん、ここで言う欲とは利自欲のことを言う。
 そうであるなら、平和と幸福のためには、個々の心のみならず、社会制度とも改善されてゆくだろう。教育がきわめて影響する。幼いうちは慈愛をもって温かく育てられ、長ずるにつれ学問は地についたものをていねいに教えられることが必要だ。生活態度は厳しい心道をもって導かれることが望ましい。自然の道理に関わる知は、脳による操作よりも自然を師とし自然の摂理から自然の摂理へと渡る思索にある。自然そのものを観察することから悟性を豊かにするものをよしとされよう。自然を省みようとしない虚構を、いかにも価値あるもののように見せかけては伝えまい。学問に当たっては、やぶに迷い込まないよう注意を払い、やぶをこしらえることはしないよう心掛けたい。次のようなことは引き継がせまい。
 相対論で見るような、数式の導かれ方が不可解なもの。数式の、物理上意味することが不可解であって、あちこちで道理に合っていないもの。ビッグバン説のように想像の産物であり、その矛盾も省みず広範の物理を規定するもの。これらは未来にとって負担となろう。
 光の光子説もその類だろうと筆者は考えている。光が水中にとび込むときその速さが遅くなり、水からとび出す際には再び真空中の速さに加速する。光が粒子であるなら再び加速することなどありえないことだ。具体的かつ明らかな矛盾を見ながらなお、不合理な説を平気で唱えることが科学者のとるべき道だといえるだろうか。
 これらの3つの説は具体的な矛盾をもっていて、誰にでもそれが容易にわかる。これら不条理な説は紐解く必要のない学説として、天動説と一緒に当分のあいだ蔵に仕舞ってはいかがだろうか。 逆に、従来説とは違っていても、自然の働きを知ろうとして、矛盾の見られない、可能性の否定できないものは、少なくとも反証されるまでのあいだは継承されるべきであろう。学校では授業に採り上げないにしろ、図書室に備えられ、常に生徒の目にとまることが必要ではないか。この種の意見――例えばアリスタルコスの説のような――は、書物として刊行され、公共図書館にストックされることが望ましい。前に述べたように、学界はしばしばその種の新しい提唱を受け入れまいとする体質をもつからである。








  134
次ページ