光速の背景 次ページ

第6章 なにが学問を遅らせるか
 わたしは光に関する矛盾を解決し、相対論の迷いを終息させるのがよいと感じ、いろいろと模索してもきた。光速に関する論文(巻末参照)を、物理学会やNature誌への発表を試みたが、叶わなかった。わたしにとって、この困難は凄まじく、あと千年を待つ心構えが必要だろうと思われる。この本で伝えようとするものが重要だということをアピールするためにも、要点部分を日本物理学会へ提出しようとしたわけだった。
 光の速度に関し、現在はなはだ不合理な仮定がなされていて、音波における「空気」のような、光における伝播媒質――エーテルと呼ばれる――は存在しないとされている。そして、エーテルは存在しないという前提に立って相対論が考えられ、そのあちこちで具合の悪い証拠が現れる。にもかかわらず、相対論は多くの科学者たちの間で、最高の物理学であると信じられているのだ。
 わたしの論文では、相対論に一言も触れないようにした。しかし身のまわりに見られる光に関する不思議と矛盾は、あのような奇妙な理論を立てても、すこしも解消するものではない。
 書物でも書いたように、実のところ、それはアメリカのマイケルソン博士がすでに解決している。わたしが今回提出しようとした合理的な解釈に立てば、彼が生涯探していたエーテルはたしかに存在したのだ。マイケルソン博士が探し求めていたエーテルはこれである――わたしはマイケルソン博士がすでに見つけていたことを明らかにしたかった。
 論文を注意深くお読み願えたらお分かりのように、あらゆる不思議と矛盾は解消される。このことが広く知られるなら物理学は正しい向きへ進むことが期待されよう。このひどく踏ん詰まった物理学が再び明るい未来に向かって、若い科学者たちによって打開されるためには、この梗塞から解放される必要がある。この問題はわたしたちの時代に現れ、存在するものだから、私たちにその義務がある。
 すでに述べたように、相対論は蜘蛛の巣のように現代物理学の先端付近でこんがらがって、これを取り外そうとすることは容易ではない。学府内部に居る人たちよりも、外部に居るわたしのような者が比較的やりやすいだろうと思われる。内部の人がやろうとすると、免職になる惧れもある。現役の人にはなかなか難しいだろう。かといって、2011年5月19日、この論文を外部から日本物理学会あて提出してみたわけだが、遺憾ながら発表することさえ得なかった。


 相対論の概要
 特殊相対論がどんな理論だったか、もう一度振り返っておこう。
 図のように光源とミラーがアーム長Lをおいて置かれた系があるとする。アーム長は、光の速さに、光源からミラーに達するまでの時間を乗じたものとなろう。υの速度で運動している系では、同じ向きの光がミラーに達するにはアーム長よりもυtだけ余計に走ることが必要で、ミラーからの戻りでは逆にυtだけ短かくてよいのが通常であろう。すると光の相対速度は往きにc-υ、帰りにc+υを持つにちがいない。
 一方、相対論では――「光速不変」を前提とし、往きについてはctに装置の移動距離υtを加算された和を、その間の時間t′で除して往路の光の速さc。帰りについては、光路は装置の走行分短く、その光路をt′で除して帰路の光の速さcである、とされる。往きも帰りも、光速は等しいとするのが相対論である。そしてそのためには表のような計算をして、静止し
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