光速の背景  140 次ページ

第6章 なにが学問を遅らせるか
が天文学を正しく修正するきっかけとなったのである。
 そのコペルニクス説は、1604年に落下の法則を発見したガリレオ・ガリレイによって、物理的事実として確立されることになる。ガリレオはその生涯の大部分を、同時代の学者たちにその真理の精髄を広めることに捧げた。彼の関心は、この説が自分の運動理論によく合致していることを示すことにあったので、彼の攻撃目標は、プトレマイオスよりもむしろアリストテレスであった。
 書物によれば、大学はアリストテレスの砦であった。スコラ学者の大多数は、アリストテレスの著作を聖書のごとく崇めた。そのばかさかげんにがまんのならなかったガリレオは、彼らについて“このようなまぬけな愚か者どもは、極端に臆病に、アリストテレスが言ったことならなんでも守ろうとする”と直言した。
 ラヴォアジェは1772年、「質量保存の法則」を発見する。これはたしかに重要な発見であった。一方では1780年の『化学入門』や1789年の『化学要論』のなかでは、彼は熱を元素の一つとしてカロリックと呼び、元素の一覧表に加えた。これはラヴォアジェの権威のためそれから25年も経ってから、やっとランフォードによって熱は運動の一種であるとする熱運動論によって正される。それさえ、まだラヴォアジェ派の学者たちに潰されそうであった。
 ドイツの一教師にすぎなかったオームは、実験で見つけたことを1826年、オームの法則として発表する。しかし、ヘーゲル哲学のなかで、当時の物理学は自然哲学の一部にすぎないとされ、実験によるものを低俗なものと見なされていたから、ヘーゲル哲学を国家哲学として信奉していたドイツの教授たちはオームによる法則をひどく罵倒した。
 オームは失意のうちにベルリンを去る。それから6年、オームの研究はフランスやイギリスの王立学会で高い評価を受け、1841年、コプリ金牌で表彰される。オームがやっとミュンヘン大学教授になるのは1849年、彼の書がドイツで出版されるのは、彼の死後30年以上を経過した1887年のことになる。
 ドイツの化学者マイヤーは友人バウアーの協力を得て、気体の熱膨張のデータから熱の仕事当量を算出し、この論文は1842年、エネルギー保存の法則としてリービッヒ化学薬学雑誌に発表された。それが化学薬学雑誌であったため、ほとんど注目されなかった。
 マイヤーはかれを襲った無視と批判と家庭的不幸から精神を病む。それから10年して、マイヤーとジュールの先取権をめぐる論争がイギリスで行なわれ、ようやくマイヤーは認められたのである。
 メンデレーフの場合はどうであったか。かれは元素を並べてみていた。何かがありそうで何となく引き込まれる、その人の勘というものであろうか、自然はある種の感受性をもった特定の人物に呼びかけるようである。
 メンデレーフに呼びかけたのは“自然の中に潜む規則性”とでもいうものであっただろうか。しかし、元素の配列を研究していたメンデレーフをみる友人らは、「邪道の化学」と考え、無益な考えを捨てて正道の研究をすべきだと勧告しさえした。それでも彼は元素と配列とのあいだにはなにか関係があるにちがいないと研究を続けた1869年、ついに夢の中で現れ、「メンデレーフ周期律表」を発表する。かれは主要論文を外国の科学者に送ったが、その意味を解さず無関心であったせいであろう、好意的な反応はほとんどなかった。
 だが、なにか未発見の元素があるはず、と予言した周期律表の空白部に1875年、ガリウムが見つかるや、周期律表の重要性が認められ、その後スカンジウム、ゲルマニウムと、次々に空白は埋められてゆく。
 アレクサンダー・コーンもこう述べている、 「同時代の著名な科学者からの敵意や反論をまともに受けたために正
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