光速の背景  141 次ページ

第6章 なにが学問を遅らせるか
しく評価され損なった発見もある。時代のドグマや権威こそ新しい着想から生まれてくる発見や科学上の功績に対する最大の敵対者なのだ。今日の定説は明日の誤謬となるかもしれない。」

 いま見てきたように本来なら明るく輝くべきいくつかの卓抜な提唱がその意義に反し不遇におかれた。こういったことはもちろん物理学に限ったことではない。べつの分野で『科学の運』から引かせていただこう。
 《重要な発見に対する人々の認知が著しく遅れた例を挙げてみよう。現代遺伝学の基礎を築いたグレゴール・メンデルの法則が認知されるには公表後40年がかかった。
 1913年、ロックフェラー研究所のペイトン・ラウスはトリ肉腫ウィルスを無細胞濾液中に発見したが、それは誰にも信じてもらえなかった。ウィルス発ガン説が確立されるにはそれから15年以上もの歳月がかかった。その間、他の科学者は「ラウスの濾過膜かおむつにはでっかい穴が開いている」などと茶化していた。ノーベル財団によって代表される科学界がラウスの発見の意義を認め、1966年にノーベル賞を授与したのは発見から50年以上も経ってからである。
 1983年にバーバラ・マックリントックが『遺伝集団における可動構造の発見』でノーベル賞を受けたのは、発見から50年以上も経ってからだ。「跳躍する遺伝子」をトウモロコシに発見したのは40年も前、ゲノムに関する当時の知識をそれに関連づけることは誰にもできなかった。これまで述べてきたことは私(アレクサンダー・コーン)が「社会全体の盲目性」と名づけたものの好例である。各時代のパラダイムはこれらの「新しい事実」を決して受容しないものだ。》
 コーンはまた偏見についてこう述べる、
《ジェンナーが王立協会に自分の発見や着想の発表を申し込んだときの反応は冷ややかだった。「誰もが信じていることと違うことを識者の前で話すという、自分の地位を辱めることもないだろうに…」。ケンブリッジのラムスデン博士は、種痘は神の教理に反するなどと主張した。1885年、モントリオールで大流行した天然痘で、種痘を受けたプロテスタントの人々がまったく無事だったのに対し、種痘を拒んだカトリック教徒は酷い病状を呈した。
 1845年、J・J・ウォーターストンが気体に関する分子理論を王立協会に提出して、まったくの戯言として拒絶され、J・C・マクスウェルによって再発見されるのは45年も経ってからである。》


ニュートリノ・ニュースが見せたもの
 すでに第2章『最新の事実』に触れたように、まだ記憶に新しい、ついこの、2011年9月23日を契機に起こった抑圧の実例がある。それはわたしにとっても、記念すべき日となった。相対論の誤りが認められ、物理学が物理学として健やかに発展することをわたしは願っていた。相対論のあちこちに見られる辻褄の合わない部分を見出し、これに代わる新しい解釈を提唱した。疑わしい仮説の中で辻褄の合わないことを実証しなければならない。それらのいくつかのことは実証例をあげ証明しえたと思っている。その他の大掛かりな実証実験は、貯えのない民間人には不可能に近い。こんなとき、願ってもない恵みが降りかかるという、思いもかけないことが実際に起こった。この日光より速いニュートリノ観測=相対性理論と矛盾―名古屋大など国際研究グループというニュースが流れたのだ。ニュースは9月23日に放送で発表され、新聞紙上には翌24日に載った。
 スイス・ジュネーブ郊外の欧州合同原子核研究所(CERN)の実験棟か
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