光速の背景  142 次ページ

第6章 なにが学問を遅らせるか
ら約730キロメートル、イタリアの地下研究所まで飛ばされたニュートリノが、光より早く到達したという実験データが9月23日、公表されたのだ。このニュースの示すところは、相対論は誤りだとする説を裏づけるものである。しかしながら、素直に喜べないものをわたしは感じた。この実験データを懐疑するすさまじい抵抗がたちまちに起こったからである。
 喜びと不安を、わたしは友人らに伝えた。友人らのひとりから(相対論の見直しに)千年かかるか?という返答をいただいた。相対論の誤っていることが世間に認められるまでに千年かかるだろう、とわたしが言ったのは、半ば冗談であるが半ばは本気である。身辺のあるかたは5年くらい、ある友人はすぐだと言った。本当にそうなら喜ばしいことだ。しかし現実はそう甘くはない。
 相対論が見直されるのに千年もの時間が必要か? それは真理の判定にどれほどの時間が必要か?という問題ではない。それを現代社会が理解し受け入れるのにどれほど時間がかかるかの問題である。現代社会がその鍵を握っている。
 あの発表があって、実験は信頼できるものか?という反撃がすぐ出された。研究者の発表に対し、通常その実験過程や方法に嫌疑攻撃が出されることはあまりない。

 相対論擁護者からの疑問はたとえばこうだ。
  1987年(第2章54ページ参照)、超新星爆発時のニュートリノが光と同時に届いた観測結果と違う。
 ②最初から最後までニュートリノは生成できていたのか?
 ③発射と到達の地点に標高差があって、重力が違う。時間の進み方が違ったのでは? などである。

 これらに対しわたしから反論するとすれば
 について
 そのニュートリノは爆発時に飛び出したものに違いないのか?が第一疑問だ。仮に正しいとして、宇宙の長距離を走ってなお同時に到着したとすれば、ニュートリノの速さは光速でなければならない。相対論が言うには質量は光速で無限大となって、同時に届いたはずがなく、矛盾している。また粒子とはいえ、物質である。そんな長距離を走って光と同時に着くには、宇宙での減速の機会の可能性を考えると、少なくとも出発時には光速を超えていなければ、1987年の観測はあり得ない。
②について
 ニュートリノが他の粒子らと衝突して別の素粒子に変わっていないか?という疑問なら、事件に出会ったニュートリノはその時刻に到達し得ない。到達したニュートリノはずっと生成していたと見て、まったく疑問はない。この疑問は、①の観測を認める者の疑問としては自己矛盾であろう。宇宙のかなたから飛来したというニュートリノこそ、その生成の継続に疑問を持つべきだ。
   ついて
 重力場によって時間の進み方が違うという仮定は実証されているのか? それが真実だとすれば、麓と山頂でずれてゆく時間はどうなるのか? 現在の麓と山頂の関係はどちらも秋である。100万年昔は何ヶ月の時間差になるのか? そのとき、麓と山頂で、それぞれの季節は夏と冬という具合にずれているのか? 厳密さで反論するなら、自らも厳密な根拠によって反論すべきである。 
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