光速の背景  147
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第6章 なにが学問を遅らせるか

2. 科学社会学からの見方


権威の頑迷

 J・ラウズによる興味ある『知識と権力』から、簡略のため一部省略しながらであることをお赦しねがって引かせていただこうと思う。
《ヒューバート・ドレイファスとポール・ラビノウの見解
 抑圧の仮説は、権力をもっぱら強制的、否定的、威圧的なものとみなす伝統のうちに深く根をおろしている。現実の受け入れの組織的拒絶として、抑圧の装置として、真実に対する無言の圧迫として知の形成を妨げ、少なくともそれを歪める。権力は真実を恐れるがゆえに、真実を抑圧せねばならない。カトリック教会によるガリレオの断罪やソ連におけるメンデル遺伝学への抑圧は、権力と知識との出会いの見本例(パラダイム)となってきた。権力は、危険な見解を支持する人物に対して行使されるが、権力を振るう人々の利害や好みに合致する見解をもつ人物を引き立てるためには控えられる。しかし、権力は新たな思想や知識を創造できない。権力の行使は、新たな思想や知識を前提としており、権力はそれらを擁護したり抑圧したりするのである。ここでも中心となっている考え方は、権力と知識との互いの外在性である。すなわち、権力は、知識の創造を抑圧ないし奨励するために行使されるが、知識の創造それ自体は権力に依拠することなくされる。例えば、権力は科学()対して(ヽヽヽ)影響を及ぼすが、その内部には影響を及ぼさない。
 もちろん、経験的にはこの主張は明らかに間違っている。人々が他の機関で他の活動に従事する場合と全く同様に、科学者はその活動の中で権力を用いる。政治的影響、キャリア形成、財政的制約、法的規制、イデオロギーによる歪曲などといった問題は科学においても生じるのであり、科学は結局のところ世俗的な配慮から完全に隔離されることはない。しかしながら、このような世俗的な関心や圧力による厄介な介入という問題は、「知識の一領域としてみなされる科学」と「権力の一領域としてみなされる科学」との間の概念的な区別を強調することによって哲学的には回避されている。》

 もうひとつ、R・ウォリスほか九名の筆になる『排除される知』から同様に引かせていただきたいと思う。
  《個々の科学者が今日行なっている知識生産活動は、何ものにも影響されていない十分に確かめられた証拠のみに基づいて何かを推論する、といった活動()()ない(ヽヽ)。信頼できるデータと一般的な洞察を手にするには、本質的に、その前提として莫大な量の背景知識を受け入れなければならない。この背景知識は、それぞれの科学者が、科学界の他の構成員や科学文献から獲得するのである。(信頼できるかどうかは)ごく一部をチェックするのが関の山で、残りの部分は正しいと仮定せざるをえない。最も専門的な科学者の判断に、ほかの科学者たちは従うのである。科学者が自分の研究分野での正統的な考えを疑い始めるや、彼は、自分はエキスパートの意見に挑戦しているのだ、ということに気づく。大部分の場合、他の科学者に何の印象を与えることもなく、その逸脱した考えは、簡単な批判だけで、無視もしくは却下されてしまう。自分の議論を印象的に展開する自信のない科学者は、努力もせずにやめてしまうであろう。

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