光速の背景  151 次ページ

第6章 なにが学問を遅らせるか
時的に発散し固定化され、この上に各々が自論を主張しあう。しだいに込み入ってきて、どれが正しいものだか見出しにくいことになる。このことをどうすればよいのか? 少なくともそれらの中から一つ一つ確からしいことを拾い出し、たしかにこれは正しいと厳密に言いうる幹を描きつつ歩みを進めるべきではないか。

 なぜこのような社会になるのであろうか。学問や技術や専門組織は、社会を介してさまざまな専門的分野に分かれている。これら各分野は社会を介して結びつけられ、互いに関連し作用し合っている。
 実験家→数理科学者→科学哲学者→科学史家→評論家→社会
 議員→政治家→政治学者→歴史家→評論家→社会
 実業家→経済学者→評論家→社会
というふうにである。
 各々は専門の虫であり、既成観念に偏執し、従来と異なる説をなかなか受け入れようとしない。それゆえ、とくに物理学においては進歩することができない、というのがおよそこの社会の構造と見てよいだろう。ではなぜそのような社会ができ上がったのか、つぎにこれを、そのような社会人を産みだす教育の面から見たいと思う。


最初の学習と現教育
 いちばん最初の学習とはどのようなものであったか? 人が誕生して最初にする学習は、まず生まれてすぐの意思表現がある。これを第一次学習と呼んでみてはどうか。手足を動かして自己の置かれた環境を探る。その結果、痛いもの寒いもの、お腹のすくことに不快を表わす。彼のボディランゲージが快不快を表現する。これは能動である。次に起こす学習が真似と言語である。これを第二次学習と呼ぶことにしよう。真似も言語も受動的な学習である。以上が智の発生の第一次と第二次である。生命の誕生からの発達史を追っているのであろう。
 現在の教育思想は右に述べた第二次学習を踏襲しているといえよう。最初にあったものから学ぶのであるから、間違いのあろうはずがない(との思い込み)。だから、すべての基本は模倣から始まる。この教育基本概念は、秩序を維持するには一見好ましくみえる。社会のならわしを教え、これまでに知られていることを教える。これらを記憶させ、理解させ従わせる。この“理解”は教えられた範囲を超えない。そのくせ内部には自己への抑うつが蓄積している。その結果、そういう特性をもった一般人として成長する。
 こういった教育システムのなかで大多数の一般人は、これまで教えられてきたことを超えて理解したり、斟酌したりすることができなくなっている。一般人の特性は、教わったこと以外のことはないとして受け入れない。専門家でない自分たちの仲間のなかから偉人が出るはずはない、と思い込んでいる。すなわち、偉人には盲従するというのが特色になる。現教育体制からは必然的ななりゆきであるといえよう。「偉い人」とは権威のことである。俗には「肩書き」と考えてよいだろう。
 もっとも、現体制を批判するだけならだれでもできようから、それならどう変えたらよいのかを示すのが親切だろう。その教育試論を述べようと思う。 智は教師によって縛られるべきではない。学力試験は、学習によって習得したていどや理解度などを測定するのに簡便な手法ではある。しかしながら、その試験で学習者の内に秘められている発想力、独悟力、潜在能力は測りえない。また、それによる発揚もないし、むしろそれを阻害するだろう、試験はただ学習を復唱するだけのことであるから。
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