光速の背景  106
次ページ

第4章 未来への道
 わたしはこれらの腑に落ちないことたちを、幻子論から説明することができる。幻子論は、物質が存在するようになるまでには、ある種の性質を持つ“場”が凝集し、物質はその結果出現するとした。質量とエネルギーとの中間的存在である物質の前躯体としてのそれを、“幻子”と呼ぶことにし、“質量”と呼ばれるものはその性質の濃縮されたある種の“性質”にすぎない、とした。それが振動して生じた現象の一つとして電界が存在し、電界の振動あるいは変動により生じる現象が磁界であるとした。電界と磁界の相互作用として伝播してゆくものが電磁波であると考える。

 幻子論的考えによれば、われわれが物質の「存在」として感じている質量とは、物の存在(形と重量)という概念ではなく、ある種の性質(ヽヽ)にすぎない。
 だが、「形として現に存在するではないか!」という反問が湧く。その“形”もまた、幻子と幻子(場と場)の相互作用から来て反発(ヽヽ)という形で現れる境界(ヽヽ)が“物性”を形成している、という考えをとるなら、それ以上の接近を許さない性質により、手で触って物の存在として感じることにほかならない。そのようにして、接近することのみならず、遠ざかることもまた、許そうとしない性質の場(『アインシュタインの嘘とマイケルソンの謎―物性論』)を形成しているのだろう。すなわち、「形」もまた「存在」ではない。
 形や重さを有するものに限らないとしてよければ、われわれが呼ぶ「空虚」の中にある“性質”という存在(ヽヽ)が充満しているといえる。その存在はわれわれが普段に感じる存在ではない、非物質としての存在であるから、物質としての誕生も消滅もない。そして人が概念として持っている「物質」は元を糾せば空虚な「場」にすぎない。
 ではなぜ、それがわれわれに「存在」するもののように感じ、その存在が誕生し消滅するものであるか? ぼくらは前に、宇宙空間を谷々の連なる場(引力)の構造としてとらえてみた。素粒子論に言う反粒子との出会いを、この“場の理論”からつぎのように説明することができよう。
 そのときわれわれは谷々と考えたが、物質(濃縮された場)の中には、山の性質を持つもの(斥力)もまた存在する。それらが出会えば、素粒子論に言う「反粒子との出会い」で消滅するのとまったく同じことか起こるにちがいない。粒子はそもそも、各々がその「場」というリングをもっており、そのリングは吸着と反発の性質が層をなしている、と考えた。粒子そのものの中に、幾重もの同心シャボン玉のように正と負(数学上の正負でなく、性質がそれぞれ異なる)の層を併せ持っていて、われわれが物質として感じるものは、その性質を均せば性質上ゼロに帰する。ゼロに帰する際にシャボン玉がはじけるように多大なエネルギーを放出するだろう。
 ところがエネルギーは高いほうから低いほうへ流れる性質がある。場が消滅してエネルギーとなったものが再びゼロとなった場所へ戻らないのは、そのエネルギーが波として波及するからであろう。波は一方のみ進み、反射されないかぎり後戻りすることがない。そうして永遠に波及してゆく旅の中で、再びほのかな幻子をつくるたびに、波は“赤方偏移”を起こしつつ減衰してゆくものであるとわたしは冥想する。これもまた人の生涯によく似ている。しかるに、永遠とは瞬間の伝承である。粒子と粒子、幻子と幻子との結合のみならず、幻子単独にもエネルギーという形に変わりうる、と考えなければならないだろう。わたしという組織体も、いつのまにか結び、いつのまにか解ける幻子のようなものだ。
  106 次ページ